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『ロックの悪魔的ルーツ』by Donald Phau
今日、ほとんどの「ヘビー・メタル」のコンサートでは聴衆がサタンの名の下に強姦や殺人を奨励されている。以下のような歌詞はその典型的なものだろう。

お前の身体を引き裂き、俺達はお前の魂をレイプする
助けなんか望んでも無駄さ
お前を無慈悲で冷酷な獣に作り替え、お前の兄弟を殺させる
死体の血をすすり、脳を食え
肉を千切って骨を砕け、皆が狂気に染まるまで
俺達は感染し汚染されているのさ、悪魔の世界が始まるぜ!


どこの子供を愛する親たちも彼らの息子や娘がこのような邪悪なものを熱心に聞いていると知ったら恐ろしがり、またショックを受けるだろう。そして、多分そのうちの誰かは「あのビートルズのいた古き良き日々に戻れたら・・」と思うことだろう。
あの無邪気なルックスのビートルズを疑う人はまず居ない、しかし、このことこそが災いの始まりなのだ。

1960年代に始まった近代的なエレクトリック・ロック音楽は当時も今も、常に英国諜報機関と悪魔的カルトとの合同した帝国である。悪魔主義者たちはドラッグ、セックス及び時には殺人に至る暴力的脅迫によってメジャーなロックグループを支配する一方、宣伝、コンサートツアー及びレコーディングに出資するレコード会社などは英国諜報機関と繋がっている。これらの2つの側面は世界で最も巨大なビジネスと密接に繋がっているが、それは国際的なドラッグ貿易である。

いわゆる「ロックスター」たちは巨大な権益構造のなかに囚われた哀れな操り人形である。彼らは最初のレコード印税を受け取った瞬間から薬浸けにされる。例を挙げれば、人気のある「スター」であるビートルズのジョン・レノンやローリング・ストーンズのキース・リチャードはヘロイン中毒であった。リチャードなどは米国への入国ビザを取るためにヘロイン浸けになった血液の殆どを輸血によって交換しなければならなかった。

また「ロックスター」というものは完全にメディアによって作り上げられた虚像である。彼らの社会的なイメージはその音楽と同様に裏に居る黒幕によって当てがわれたものだ。例えば、1964年にビートルズが初めてアメリカに来た時、彼らは空港で何百人もの若い女の子達に揉みくちゃにされた。新聞は即座に「ビートルマニア」がアメリカを席巻したと報じたわけだが、実際には彼女達はプロモーターに雇われてブロンクスの女子校から連れて来られた「サクラ」であった。

60年代のロックグループを取り巻く金は時には何百万ドルにも上ったが、これも黒幕のヒモの付いたプロモーターに完全に握られていた。
1963年から70年にかけてローリング・ストーンズは200万ドル以上を稼ぎ出したが、それでもこのグループのメンバーは殆ど破産しかけていた。彼らは自分たちの金がどこに行ったのか誰もわからなかったのだ。

1963年から1964年にかけて、ビートルズとローリング・ストーンズは西ヨーロッパとアメリカの文化に定着したわけだが、この2つの鉾先を持つイギリスの発明品はそのデビューの時期も周到に練られたものであった。
アメリカは当時、ジョン・F・ケネディの暗殺にショックを受ける一方でワシントンD.C.ではマーチン・ルーサー・キングに率いられた50万人のデモ行進が行われるなど公民権運動が盛り上がった時期でもあった。
カウンター・カルチャーとしてのロックはこれらの政治運動を破壊する武器としても利用された。

後に1968年から1969年にかけてはヨーロッパとアメリカにおいて学生と労働者の大規模なストライキが見られたが、この時は大規模な野外ロックコンサートは増大する人々の不満を逸らす目的で利用された。
これらのロックコンサートは薬浸けとフリーセックスのカウンター・カルチャーに人々を呼び込むためのお膳立てとなったのだ。これらのコンサートに来る何百万人のために何万錠もの幻覚剤であるLSDが無料でバラ蒔かれた。また、これらの薬剤は秘密裏にコカコーラなどの飲み物にも入れられ、何も知らないで飲んだ人々は狂気をさまよい、かなりの数の人が自殺までしたのだった。

半世紀も遡らない頃、子供達はピアノやバイオリンを習い、バッハやモーツァルト、ベートーベンといった偉大な作曲家の作品をレコードで聞いたものだったが、今ではこれらのレコードを出版していたのと同じレコード会社が悪魔的な「ヘビーメタル」ロックを売り出し、かつての偉大な作曲家達の遺産を破壊しようと企んでいる。

この30年来、西欧社会はユダヤ・キリスト教文明として知られている文化体系を破壊しようと目論まれた文化戦争のただ中にある。この目論みは成功してはならない。この邪悪なものに立ち向かう為に、約30年ほど遡ってみよう。これは英国リバプールの無邪気な4人の若者がビートルズとして出発した時期のことである。

ビートルズの成り立ち

ビートルズが演奏を始めたのは1950年代の終わり頃のイギリスと西ドイツのジャズクラブであった。これらのクラブはどれも市街の中心部にあり、売春とドラッグ売買の拠点となっているものだった。彼らの伝記作家であるフィリップ・ノーマンは「彼らがレギュラーで出演できたのはあるストリップ・クラブだけだった。ここのオーナーはジャニスというストリッパーが水兵や闇のビジネスマン、レインコートを引きずった常連客の前で無愛想に服を脱いでいく間にギターをかき鳴らす料金としてそれぞれのメンバーに10シリングずつを支払った。」と書いている。

ビートルズがドイツで最初のヒットを飛ばしたのは1960年8月のことだが、この時期、彼らはハンブルグの悪名高いリーパーバーン地区のジャズクラブに出演していた。この地区を描写してノーマンは「赤いライトの飾り窓にはあらゆる扇情的な衣装を着けた女達が顔見せし、年齢は少女から年増まで・・全てが自由、全てが簡単。セックスは自由・・あなた次第。」と書いている。

無邪気な外見からは遠く離れ、ビートルズはその最初の演奏から常にプレルディンと呼ばれる薬浸けだった。「ジョン(レノン)は口中に薬を頬ばって泡を吹いていた。彼はステージで凶暴になり、転げ回ったり這いつくばったりしていた・・。ドイツの聴衆は彼が何を言っているかがよく分からなかったということもあり、ジョンは’シーハイル’とか’くそナチ’とか叫び出したが聴衆はずっと笑いながら手を叩いていた。」

ステージを降りると、ビートルズたちはただの悪党だった。ノーマンは続けるが、「ハンブルグでは、ジョンは日曜日になるとバルコニーに立ってセント・ジョセフ教会に出かける人々を冷やかしていた。彼はキリストの像に水で膨らませたコンドームを括りつけてバルコニーにぶら下げて礼拝に行く人たちに見せびらかした。また、ある時には3人の修道女に小水をひっかけたりもした。」

ハンブルグ時代の1962年の6月にビートルズはイギリスに戻っていたブライアン・エプシュタインという名のホモのマネージャーから電報を受け取った。「おめでとう」と電報にはあった。「EMIが録音しようと言ってきた。」EMIはヨーロッパで最も大きなレコード会社であり、後にビートルズを宣伝する上でこの会社の役割は重要な鍵となった。
EMIのレコーディング・ディレクターであるジョージ・マーティンとエプシュタインの厳密な指揮の下にビートルズはよく洗濯され、髪型も「ビートルズ・カット」になった。EMIのマーティンは録音スタジオのなかでビートルズを創りあげたのだった。

マーティンはロンドン音楽大学でピアノとオーボエの訓練を受けたクラシック音楽家だった。一方ビートルズはギター以外には弾ける楽器が無く、譜面も読めなかった。マーティンにとってビートルズの音楽的素養は悪い冗談でしかなかった。彼らの最初のヒットレコードの「ラブ・ミー・ドゥー」の録音では、マーティンはドラムスのリンゴをスタジオ・ミュージシャンに取り替えた。マーティンがリンゴに言ったのは、「ロールも出来ないんじゃ食っていけないよ。」というものだった。
これ以後、マーティンはビートルズが持ってくる簡単な断片を次々とヒットレコードに作り直していったのだった。


ロックウッドとEMI

EMIは貴族であるサー・ジョセフ・ロックウッド(Sir Joseph Lockwood) に率いられる企業であるが、Electrical and Mechanical Instrument という意味であり、英国における最も大きな軍需用電子機器の製造会社の一つである。マーティンはパーロフォンと呼ばれるEMIの顧問部の長でもあった。現在はソーンEMIと呼ばれているが、1960年代の中頃までにはこのEMIの音楽部門は74,321人の社員を抱え、31億9000万ドルを稼ぎ出すまでに成長していた。

EMIはまた英国における軍の諜報エスタブリッシュメントのなかでも重要なメンバーであった。

戦争が終わった1945年、EMIのヨーロッパ部長のウォルター・レッジはドイツの窮乏した多くの音楽家や歌手をEMIと契約させることによって、ほぼ殆どのクラシック音楽のレコーディングを支配するようになった。この時、ナチ出身の音楽家が宣伝される一方、ベートーベンやブラームスの伝統に沿った演奏を残そうとする音楽家は排斥された。
後にヘルベルト・フォン・カラヤンがスーパースターの扱いを受けたのに対して偉大な指揮者であるウィルヘルム・フルトヴェングラーが無視されたように、レッジはナチのメンバーと契約しレコーディングをしたのだった。

ビートルズに関しても、EMIは最初から人気者のビートルズという神話を創り上げていった。1963年の8月、彼らのロンドン・パラディウムにおける公演が初めてテレビで取り上げられた際にも、何千人ものファンが騒ぎを起こしたということになっている。その翌日には英国の大部数を流通させる新聞は一面に写真を載せ、「警察は1000人の叫び続けるティーンエイジャーを必死で押し戻した」という見出し掲げた。しかし、どの新聞を見ても写真は「寄り」で撮ってあり、3、4人の「叫ぶティーンエイジャー」しか見て取れないのであり、この伝説はでっち上げられたものだったのだ。
現場にいた写真家によれば、「暴動なんて無かったですね。私はそこに居ましたから。見たのは(叫んでいる)8人くらいの女の子でした。もしかしたら、もっと少なかったかもしれません。」ということだった。

1964年の2月にはビートルズ神話はケネディ空港でアメリカを打ちのめしたが、これは先に述べたように予め仕込まれた群衆によって為されたものだった。最初のアメリカツアーをお膳立てする為にメディアは歴史に残る大規模な聴衆の動員を創出した。エド・サリバン・ショーには2週間前から(視聴者参加希望の)人の列が出来、7,500万人以上のアメリカ人がビートルズが頭を振って体をくねらす様子を観たが、これはこれ以降の何百というロックグループが真似をする儀式となったのだった。

その後、帰国したビートルズは功労があったとして英国貴族階級から報償を得ることになった。1965年10月、4人は「騎士団」に叙せられ、バッキンガム宮殿においてエリザベス女王の大英帝国の一員として個々に叙勲された。

カスからの浮上:ザ・ローリング・ストーンズ

今日のけばけばしい悪魔的なヘヴィーメタルロックの源泉は英国のローリング・ストーンズにあると言われている。彼らが名声を獲得する過程はビートルズのそれと密接に関係している。
ストーンズは一般に言われているようにビートルズの対極として性格付けられている。ストーンズが「下品」で「汚く」「反抗的」なのに対してビートルズは身なりの良い「良くできた4人組」というところだ。
このように対抗するように見えながらも、彼らは単に同じ動きの2つの側面に過ぎない。ストーンズの最初のヒットレコードはビートルズによって作曲されたものであり、彼らの最初のレコーディング契約もビートルズのジョージ・ハリソンによって仲介されたものだった。

ビートルズと同じゲームプランに沿って、ローリング・ストーンズは1963年の春に英国の最も人気のあるテレビ番組の一つである”サンキュー・ラッキースターズ”に出演した。この時には中年の視聴者層の反応はビートルズの時のものとは全く違うものとなった。数百通の怒りに満ちた手紙が送り付けられたが、典型的なものは「あんなゴロツキどもがテレビに出ることが許されるとは不真面目はなはだしい。彼らの格好は胸がむかつくものだ。」というものだった。

計画は、しかしながら確実に効果を現した。ストーンズのマネージヤーであるアンドリュー・オールドハムはこのような反応に得意顔だった。彼はグループに対して「俺達はあの小ぎれいなビートルズと正反対のことをやろうとしているのさ、親たちがお前らを嫌えば嫌うほどガキどもはお前らを好きになるのさ。まあ、見てろよ。」と言った。

1964年になると、ローリング・ストーンズはビートルズが先にやったように、エド・サリバン・ショウに出演した。今度は全米の視聴者はあるスペクタクルを目撃することとなったが、これはテレビ局のスタジオがストーンズのファンによって滅茶苦茶にされるというものだった。サリバンはこの後の番組のなかで「私は約束します。彼らは二度とこの番組には戻って来ないでしょう。」と言った。
しかしながら、広告効果としては確実に望むべくものがあり、2、3ヶ月の内にはこのグループのレコードは数百万枚の売り上げを示したのだった。

ここにおいて、計画はビートルズとローリング・ストーンズを使ってある世代全体をニューエイジの信奉者に作り替えるという基礎が出来たことになる。このニューエイジ信奉者たちは未来においてサタニック・ムーブメントの中核を形成することが出来、その後には教育、行政、政治的な指導層にまで展開することができるものだ。

サタンへの導線

この方面の研究者であるモーリー・テリーが1966年から67年にかけて書いた本に「究極の邪悪」(The Ulimate Evil)というものがあるが、この本の中でサタニック・カルトであるプロセス教会(the Process Church)がローリング・ストーンズとビートルズをこの66年から67年の時期に抱き込もうとしていた、という記述がある。テリーはストーンズのリーダーであるミック・ジャガーの長年のガールフレンドであるマリアンヌ・フェイスフルがプロセス・マガジンに登場していたと報告している。この写真は彼女がまるで死んだような感じで薔薇を掴んでいるというものだった。
テリーの本ではまた、チャールズ・マンソンやサムの息子連続殺人事件とプロセス教会との関連も示唆している。
また、ジョン・マーカムという元プロセス教会担当の弁護士がいるが、この人物はリンドン・ラルーシュに対してでっち上げの裁判を最近起こした。

ローリング・ストーンズとプロセス教会とを繋ぐ重要な鍵となる人物にケネス・アンガーがいるが、この人物は現代サタニズムの「創設の父」であるアレイスター・クロウリーの信奉者である。
アンガーは1930年に生まれ、子供のころはハリウッドの子役スターであったが後にクロウリーの献身的な門弟になった。

クロウリーは1875年生まれで「偉大な獣」(Great Beast)と呼ばれた。彼は継続的に小児を犠牲に捧げる儀式を執行することで知られ、この儀式ではサタンの高僧もしくは”メイガス”(キリスト生誕における東方博士)の役を務めた。
クロウリーは1947年に死んだが、その死因は大量のヘロイン摂取による依存症とその合併症だった。死ぬまでに、彼はハリウッドを含む多くのアメリカの街に集会所を作ることに成功していた。アンガーはクロウリー同様(儀式における)メイガスであり(ハリウッドにおいて)クロウリーの継承者と見なされていた。

クロウリーが死んだとき、アンガーは17歳だった。この1947年という年にアンガーは既にいくつかの映画を監督し制作していたが、これらの映画は現在の基準で考えても純粋な邪悪の臭いのするものだ。

1966年から67年の間は、プロセス教会がロンドンで勧誘を行っていたと報告されているが、アンガーもまたそこにいたのだった。作家のトニー・サンチェスによれば、「ミック・ジャガーとキース・リチャード、そして彼らの女友達のマリアンヌ・フェイスフルとアニタ・ポーレンバーグはアンガーがクロウリーの力と思想を説くのを魅入られたように聞き入っていた。」

アンガーは英国滞在中、アレイスター・クロウリーに捧げる映画を作り、これは「ルシファー・ライジング」(Lucifer Rising)と名付けられた。この映画の中ではプロセス教会とマンソンファミリー・カルトおよびローリング・ストーンズが同時に取りあげられている。映画の為の音楽がミック・ジャガーによって作曲され、プロセス教会の信奉者であるマリアンヌ・フェイスフルは黒ミサの撮影の為にエジプトまで同行した。ルシファーの役はカルフォルニアのロックグループのギタリストであるボビー・ボーソレイルによって演じられたが、ボーソレイルはマンソンファミリーのメンバーであり、アンガーのホモセクシャルな恋人であった。

アンガーの監督の下で2.3ヶ月英国に滞在した後に、ボーソレイルはカルフォルニアに戻りマンソンファミリーの最初のおぞましい殺人儀式に参加した。ボーソレイルは後に逮捕され、いまではマンソンと一緒に監獄のなかで命を永らえている。アンガーはスターの役者を失ったところでミック・ジャガーにルシファー役を頼んだが、最終的にはアントン・ラ・ヴェイ(サタニック・バイブルの著者であり悪魔の第一教会の主催)が役を演じることになった。この映画は”Invocation To My Damon Brother”というタイトルで1969年に発表された。

ロンドンでは、アンガーはストーンズの女友達であるアニタ・ポーレンバーグをサタニズムに勧誘することに成功していた。ポーレンバーグは1965年にストーンズに出会った直後から、5人のメンバーのうちの3人と性関係を持っていた。
アンガーのアニタに対するコメントは「もっといい表現があればいいのだけど、アニタは魔女だと信じてるね。ストーンズのなかのオカルト・ユニットはキースとアニタ、それにブライアンだ。わかるだろ、ブライアンも魔女なんだ」というものだった。

グループの友人の一人、トニー・サンチェスは彼の本”Up and Down with the Rolling Stones”のなかでアニタに関して、「彼女は黒魔術に取り憑かれていて、吸血鬼を避けると言ってニンニクの束をそこら中に、ベッドにまでぶら下げた。また、彼女は聖水を入れた不思議な古い入れ物を持ち歩いていて、それはなにかの儀式に使うようだった。彼女の儀式は徐々に秘密めいてきて、私には彼女が呪文を唱えているときには絶対に邪魔をしないようにと言ってきた。」と書いている。
また、「彼女の寝室には彫刻が入ったおおきなチェストがあったが、彼女はこれに人を近づけないようにしていたので、私はこれは彼女のドラッグ置き場だと思っていた。ある日、その家が留守だったので私はその中を覗いてしまおうと決心した。その引き出しのなかにあったのはなんだかわからない動物の骨の残骸やちぎり取られた皮や毛皮だったのだ。」とも書いている。

1980年にはキース・リチャードのニューイングランドの住居の17歳の家政婦がアニタ・ポーレンバーグのベッドで射殺体で発見された。
この「自殺」と判定された死はポーレンバーグの銃によるものだった。リチャードの家はプロセス教会の東海岸本部の近くに位置している。英国の新聞ミッドナイト紙の記事によれば、コネチカットの警察官であるマイケル・パサロは「自殺」と判定した責任者であるが、彼は「奇妙な歌がリチャードマンションの4分の1マイルほど向こうの森から聞こえた。」と報告している。
この新聞は続けて「この地域では、ここ数年にわたっておぞましい悪魔儀式がいくつか行われて来た。この地方の通信員はオカルティズムの拡散は富裕な人々が麻薬を使うために起こっていると述べている。」と書いている。

1967年、アンガーとプロセス教会との関係を反映してローリング・ストーンズは隠すところなく悪魔を賞賛する題名をつけた”Their Satanic Majesty Request”という最初のロックアルバムを発表した。また、それよりも少し早く、ビートルズはサイケデリック・ドラッグを宣伝するための彼らの最初のアルバム”Sargent Pepper's Lonely Hearts Club Band”を発表していた。このアルバムはLSDトリップを空想化した”Lucy in the Sky with Daiamond”という短縮してLSDと読める題名の曲が入っており、トップの売り上げを示していた。

明らかに、このビートルズのアルバムもサタニストであるアレイスター・クロウリーに捧げられていた。これは1947年のクロウリーの死んだ日からほぼ20年後に発表されており、そのタイトル曲は”It was twenty years ago today”という歌詞で始まり、またアルバムの表にはクロウリーの写真が使われている。

アルバム発表の一ヶ月後にはビートルズは公に、いつもLSDを使っていると発言して世界を驚かせた。メンバーのポール・マッカートニーはライフ・マガジンのインタビューに答えて「LSDは目を開かせてくれる。我々は脳の10分の1しか使ってないんです。」と言っている。彼らはまた大麻の合法化も公に訴えていた。

猫はカバンから飛び出したわけだが、それに反対する者は少なかった。英国ではBBCが”A Day in the Life”を酷評し、アメリカでは、メリーランド州知事のスパイロ・T・アグニューが”Lucy in the Sky with Diamond”に反対するキャンペーンを張ったが、彼は後になって作為的にはめられて失脚した。

(2002年の夏、ケネス・アンガーが来日して日本の信奉者との交流があったようだ。
日本にも映像関係や音楽関係に信奉者がいるという事実は見逃せない。
ドキュメンタリーが放送されていたが、70を越えるとは思えない若い外見とホモセクシャル
特有の目の動きは興味深いものだった。)


カウンター・カルチャーの創出

1967年にはアメリカの若者に対して顕著で躊躇のない文化的戦争が仕掛けられた。この年からは巨大な野外ロック・コンサートが始められたが、これ以降の2年間にはほぼ12にわたるコンサートが開かれ、400万人以上の若者がこれらの「フェスティバル」に参加した。これらの若者達はあらかじめ計画された大規模なドラッグ実験の犠牲者となったのだった。
精神を破壊する幻覚剤であるPCPやSTP、それにビートルズが宣伝したLSDなどがこれらのコンサートでは無料で配られた。これらの数百万の参加者達は家に戻ったのちには新しいドラッグ文化のメッセンジャーやら宣伝屋となったが、これらの動きは後に「ニューエイジ」と呼ばれることになる。

最初の「フェスティバル」は”The First Annual Monterey International Pop Festival”(モンタレー・ポップ・フェスティバル)だが、これは10万人の若者を集めた。このモンタレー・ポップの本来の目的は、LSDのようにサイケデリックもしくは幻覚剤として分類される新しいドラッグを広範囲にばらまくことだった。このモンタレーにおいて数千人のティーンエイジャーたちに新しい幻覚剤が紹介された。

最初のLSD実験は1960年代の初期にサンフランシスコのハイト・アシュベリー地区で始められた。このプロジェクトはMKウルトラというコード名の下にCIAと英国情報部の合同作戦として運営されていた。まず、5000錠のLSDを無料配布する役目を担ったのは、ケン・ケーシーズ・メリー・プランクスターとして知られるコミューンであり、LSDの使用後の効果は詳細に観察された。

ケン・ケーシーは所謂「詩人」だが、ドラッグ犯罪者ということが明らかになっている。彼は自分のコミューンであるメリー・プランクスターのバスをペンキで塗り立ててカルフォルニア中を回りながら、LSDを仕込んだクールエイドを何も知らない人々に売りつけていた。

LSDの犠牲者が示す薬の効果としては、ドラッグが生み出す幻覚と現実を区別することが出来なくなり、精神的に破壊されるというところにある。多くの人々がこのような精神病的症状(バッド・トリップとも呼ばれるが)によって自殺に導かれる可能性があり、また実際に自殺をしてしまう。人がこのような知識なしにLSDを与えられた場合、このドラッグの精神病的症状を生み出す能力は増幅され、大抵の場合、犠牲者は脳に恒常的な損傷を受けることになる。

モンタレー・フェスティバルのオーガナイザーはジョン・フィリップスだったが、この人物はロック・グループのママス・アンド・パパスのメンバーだった。フィリップスは後で語るとおり、ドラッグの売人であり、チャールズ・マンソン周辺のサタニスト達及び映画監督のロマン・ポランスキーらと密接な関係を持っていた。

フィリップスはコンサートの資金集めと宣伝の為に委員会を招集したが、この委員達はそろって英国情報部およびサタニストのネットワーク人脈の中から選ばれている。
委員の中には、アンドリュー・オールドハム(ローリング・ストーンズのマネージャー)、ストーンズのリーダーのミック・ジャガー、ポール・マッカートニーおよびフィリップの友人のレコード・プロデューサーであるテリー・メルヒャー(ドリス・デイの息子)などが居た。

このコンサートはステージ・セット及び巨大で先進的な野外PAシステムも含めてフィリップによって運営された。またこのコンサートはアメリカの聴衆があからさまに悪魔的な英国のグループである、ザ・フーやジミ・ヘンドリックスを経験した最初のものであった。彼らの演奏の終わりには、ザ・フーの場合、ドラッグで凶暴になった彼らは自分たちの全てのギターやアンプ、ドラムを破壊した。ヘンドリックスなどは爆音で演奏中に自分のギターでマスターベーションの真似を披露した。

ここでは公然と大量のドラッグが使われた。”Aquarius Rising”の著者であるロバート・サンテリは、「モンタレーではLSDには何の制限もなかった。”モンタレー・パープル”の錠剤はちょっと試してみたい人には、文字通り誰にでも与えられた。」警察は誰も逮捕することはなく、このことはこの後の野外コンサートでは慣例となった。

ここには作戦としてより大きな枠組みがあったのだ。この策謀はMKウルトラ作戦の一部であり、また、フィリップの周辺のサタニスト達やエージェントとしてケン・ケーシーやティモシー・リアリーのような人々を巻き込んで進行していたのだった。
この計画はサンフランシスコ周辺から始まりサタニストの保護区にその中心を移して行ったが、その過程で多くの家出してきたティーンエイジャー達を勧誘し、利用していった。

フィリップはこれに先立ち、”San Francisco”という曲を書いているが、この曲は5百万枚以上を売り上げていた。
これは国内の若者達に「髪に花を飾って」サンフランシスコに来るよう呼びかける内容だった。この曲の影響で1968年の夏には実際に数万人の若者が新しい「ヒッピー」に参加しようとサンフランシスコに殺到したが、これは皮肉にも”Summer of Love”と呼ばれた。これらの若者達の一部はチャールズ・マンソンを崇拝するようになったわけだが、彼のカルト「ファミリー」は家出した若者達を仲間にすることを主な勧誘の手段としていたのだった。

マンソンとロック・スター

チャールズ・マンソンは自分の「ファミリー」に催眠的なパワーを駆使する一匹狼の精神異常者として描かれてきた。しかし、実際はマンソンはセックスとドラッグの提供者として、ハリウッドの俳優、女優、プロモーターやそのパートナー及びロックスター達のネットワークのなかではよく知られた存在だった。

パパ・ジョン・フィリップスの自叙伝の中で、彼はテリー・メルヒャーとビーチボーイズのメンバーのデニス・ウィルソンにウィルソンの自宅に招かれたことを書いているが、その時にウィルソンは「このチャーリーっていうヤツはいつも綺麗な娘を連れて歩いてるんだ。彼はギターも弾くしね、すごいヤツなんだよ。女の子たちはみんな召使いみたいにまとわりついてるわけさ。君もお好みのどの娘とヤッてもいいんだよ。たいしたパーティーだろ。」と言ったと書いている。

マンソン「ファミリー」の全員が一年近くビーチボーイズと同じマンションに引っ越して住んでいた時期があったが、ビーチボーイズは当時すでにホワイト・ハウスで演奏をし、EMI傘下のキャピトル・レコードの最高のレコーディング・グループだった。

1969年8月10日の日曜日、マンソンはメルヒャーの家に自分のカルト・メンバー4人を送り込んだが、これは彼らの最後の訪問となった。この時、メルヒャーは不在でそのかわりに映画監督のロマン・ポランスキーの妻で女優のシャロン・テートと他に3人がいた。4人のグループが去ったあとには、テイトと他の人たちは無惨にも切り刻まれた死体で放置されていた。
フィリップスに関しては、1980年に大規模なドラッグの組織的売買を行っていたという理由により逮捕されている。

アクエリアスの時代

モンタレー・ポップの後の最も大きなコンサートはタイム誌が「アクエリアン・フェスティバル」および「歴史上最も重大なハプニング」と書いて賞賛した”Woodstock Music and Art Fair”であるが、この「アクエリアン」という言い回しは慎重に選ばれたものだった。アクエリアン時代とは魚座の時代ということであり、これはキリストの時代が終わったということを象徴していた。

ニューヨーク州の北部にある小さな街であるウッドストックの農場には、ほぼ50万人の若者達が薬浸けで洗脳されるために集まった。
この犠牲者達は隔離され、汚物にまみれ、幻覚剤を与えられ続け、3日の間寝ないで過ごしたわけだが、これは全てFBIと政府の役人とが結託して仕込んだものだった。また、コンサートの安全管理はLSDの大量配布の為に訓練されたヒッピー・コミューンに任されていた。

ここでもまた、発起人たちは英国情報部絡みの人脈だった。ウッドストックはEMI傘下キャピトル・レコードのコンテンポラリー・プロジェクト部門の部長であるアーティー・コーンフェルドの発想だった。基本的な資金はペンシルバニア州の製薬大企業の相続人であるジョン・ロバーツと他の2つのパートナーによって提供された。このうちの一つはスイスの製薬会社であるサントス研究所であり、初めてLSDの合成に成功した会社である。ロバーツは後になって、観衆に対してドラッグをばらまく為に自分の会社を使ったとして告訴されている。

来場する50万人のために適切な準備は行われてはいたが、それは到底充分とは言えなかった。3系統のパートナーのうちの一人であるジョエル・ローズンマンはコンサートが近づくにつれて見えて来たことを書いているが、これは「食料と水の供給は明らかに不足するだろう。衛生施設は負荷がかかりすぎ、忍耐も切れるだろうし、ドラッグはばらまき過ぎになる。最悪なのは誰にも帰りたくても出口がないということだ。」というものである。
自分の排泄物の上に座り込むというのは実際に計画の一部であった。ジョン・ロバーツは冗談めかして「我々はパトロンを抱き込むために門のところでバナナを手渡すのさ。」などと書いている。

ホグ・ファームと呼ばれるヒッピー・コミューンはウッドストックでは特別な役目を果たした。ホグ・ファームはウェイビー・グレイバーとあだ名がついた男に率いられていたが、この人物は以前にはケン・ケーシーのMKウルトラ作戦であるメリー・プランクスターに参加していたメンバーだった。ホグ・ファームのようなコミューンは主にカルフォルニアの人里離れた場所に見受けられるが、これらはテロリスト達の温床となるとともにサタニック・カルトの生まれる素地ともなっている。これらのコミューン同士はお互いにメンバーを入れ替えるが、このことはプロセス教会とマンソンにとっては勧誘の為の下地となっている。シャロン・テイトとその客が惨殺された時期、ホグ・ファームのメンバーであるダイアン・レイクはマンソン・ファミリーのメンバーでもあった。

開催予定の一日前の8月14日、ニューヨーク市警の非番の警察官350人で構成されたフェスティバルのための保安部隊は突然手を引くことになった。ニューヨーク市警の広報官は、ウッドストック市とは如何なる公の交渉が出来ているいるわけではなかったと言ったが、プロモーター側はこれを激しく否定した。1969年8月15日付のニューヨーク・タイムスの記事には、ウッドストックの警察長官は「今となっては私は何の保安部隊も持てなくなった。これには打ちひしがれる。この国で今まで無かった規模の子供達が全く警察の保護も無しに集まるということになる。」と語ったとある。
驚くべきことではないが、ホグ・ファームが保安部隊の役に回ったのだ。

ウッドストックの発起人で出資者のジョン・ロバーツは、ホグ・ファームがドラッグの流通に関与していたことをよく知っていたと公に認めている。彼は「彼らの稼ぎというものは単にブツをお祭りに持ち込んだり持ち出したりすることだ。見てくれも、しゃべり方や雰囲気も群衆と同じ平和維持部隊というのはとても信頼されるし効果的だ。それに、最も重要なことは彼らはドラッグの扱いに長けている。粗悪なものと良質なものの区別がつくし、トリップの善し悪しも知っているし、毒とそうでないものの違いなどもよく知っている。」と書いている。

この時期、ホグ・ファームはニューメキシコ州の山間部に住んでいたが、ロバーツは17000ドルの経費を掛けてボーイング727をチャーターし、100人のメンバーをニューヨーク州まで飛ばせた。

50万人の若者にドラッグをばらまくという計画があったということの最終的な傍証として、この地域の弁護士が個人的な話として認めたところでは、麻薬取り締まり法を犯したということでは誰も逮捕されたり起訴されたりはしなかったということだ。ジョン・ロバーツの記述には、「地区の弁護士は早い段階から我々の観客達が違法なドラッグを使っていたのを知っていた。また、このようなことはこの週末にとってはたいした問題ではないことも心得ていた。だからこそ、彼は慈悲の心で通したということだ。」とある。
ロバーツはまた、自分はコンサートの始まる前日まで継続的にFBIと会合を持ち、全面的な協力を取り付けていたとも書いている。


実験は開始された

ウッドストック・フェアの開催日の2日前から既に5万人の若者達が会場に到着していた。ドラッグは即座に行き渡り始めた。多くは彼らの赤ん坊を連れて来ていたが、ロバーツが書いているところによれば、これらの乳児にさえドラッグが与えられた。ロバーツは「赤ん坊たちは近くの湖で裸で泳ぎ、マリファナを吸い、音楽浸けになった。」と書いている。

ニューヨーク・タイムスが行ったアンケート調査によれば、これらの参加者のうちの99%がマリファナを使っていたことが示された。また、麻薬使用により誰も逮捕されなかったと報告した地方警察官は完全に打ちのめされていた。8月17日付のニューヨーク・タイムスに載ったある警察官のコメントには、「もし我々がやったら(逮捕したら)、サリバン及び隣接する3つの地域には収容する場所など無くなっていただろう。」とある。

マリファナの使用などは最悪のものではなかった。これに続いて、元々のMKウルトラ計画に沿うかたちでLSDの大量配布が行われたが、これらのかなりの部分は、これ以前の5年前からケン・ケーシーによって行われてきたLSD入りのコカ・コーラによってばら撒かれたものだ。ロバーツは冗談めかして、「かわいそうな警官がいたんだが、奴は交通整理中にLSD入りのコークを渡されたのさ。しばらくしたら、そこら辺の車は渋滞で凍りついたわけなんだが、奴はまだ道のところでヘルメットを振り回していたんだ。それて、とうとう運転してる連中にそこからつまみ出されたというわけさ。」などと書いている。

この後の3日間に亘って、会場に着いた約50万人の若者達はドラッグとロック浸けになった。また、豪雨のために泥の中に膝まで浸かったが、避難所も無ければ出口も無く、車は8マイルも離れたところに停められていた。ローズンマンが書いているところでは、「ウッドストック実験とは、24時間休みなく演奏させ、ガキどもを絶えずトランス状態に置いておくことだった。」ということだ。

(開場して)24時間以内には300人以上の若者達が極度に体調を崩したと医療班に報告されているが、このあとには数千人が担ぎ込まれた。8月17日のニューヨーク・タイムスのレポートには「今夜、フェスティバルのアナウンサーはステージ上から、”粗悪な薬”(LSDのこと)が出回っていると警告した。彼は、”皆さんは毒物を摂っているわけじゃない。ヤクは毒じゃありません。少し粗悪なだけで、死ぬことはありません。もし、毒だと思うなら、それは違います。しかし、もし心配ならば一錠の半分をヤッてください”と聴衆に呼びかけた。」とある。

この、あらかた50万人に対するアドバイス「一錠の半分を」というものは、まさにMKウルトラのエージェントであるウェイビー・グレイビーによって為されたのだった。

気分が悪くなる人が増大したために、ニューヨーク市に対して緊急医療チームの要請がなされ、50人以上の医者とそれに伴う看護婦が派遣されたが、ウッドストックが終わるまでには約5000に上る治療ケースが報告されたのだった。


オルタモント:スナッフ・フィルムの制作

1960年代に於ける最後のロック”フェスティバル”はサンフランシスコ郊外のオルタモント・レース場で行われた。トリの演奏者は、ビートルズが世に出て以来、今やロック界の頂点に君臨するローリング・ストーンズだった。このコンサートの提案者はMKウルトラのエージェントであるケン・ケーシーだった。

今度は、聴衆はあからさまな悪魔への賛美のなかで狂乱へと落とし込まれた。これは結果として文字通り悪魔の集会となったのだったが、最終的には4人が死亡し、数十人が殴られて怪我をした。ローリング・ストーンズのリード・シンガーのミック・ジャガーはルシファーの役を演じたが、この時の演奏は今日の”ヘビー・メタル”コンサートの幕開けとなったのだった。

40万人以上が参加したオルタモントのコンサートはウッドストックすらもはるかに下回る準備のもとに開催された。食料や水ですら殆ど供給されなかったが、大量のドラッグだけは出回っていた。ウッドストック同様に、このコンサートは麻薬の集団実験の道具にされていたが、とくにLSDに重きを置いていた。作家のトニー・サンチェスはオルタモントに集まった人々を以下のように描写している。

「午前中を半ば過ぎるころまでには、25万人を越える人々がひしめき合い、事態は混沌としてきた。LSDの模造品が溢れ、人々はそこら中で狂乱していた。メキシコのマリファナ、カルフォルニアの安ワイン、アンフェタミンなども加わって、誰もが演奏の始まるずっと前からひどく酩酊していた。・・・」
「午後になる頃にはあらかた全員がトリップしていたが、ある男などは麻薬のおかげでレース場に掛かる橋から飛び出そうとして死にかかっていた。また、その反対側では、排水溝に飛び込んだ若い男が溺れかかって助けを呼んでいたが、酩酊した人々はこの男が沈みかけるのをぼんやりと眺めているだけだった。誰も自分が正気なのか幻覚を見ているのかわからないようで、彼が死んだのかどうかは、とりあえずどうでも良かった。他の場所では産気づいた女の子から赤ん坊を取りあげるために医師たちが忙しくしていた。・・・」

地獄への道はまだ続く。ローリング・ストーンズはコンサートの警備の為にギャング団であるヘルス・エンジェルスを500ドル分のビールで雇ったと言われている。しかしながら、彼らへの本当の報酬とは麻薬の販売によるものだった。
ヘルス・エンジェルスは強盗、強姦犯及び殺人犯などから構成されるギャング団だが、これは西海岸全域における麻薬売買の元締めとしてよく知られているものだ。

フェスティバル開催中、50万人に近い群衆はストーンズが現れるまで1時間半以上待たされていた。やっとグループがステージに現れた時にはちょうど日没になったが、これは特別な証明効果を狙ったものだった。ミック・ジャガーは絹のマントを羽織り、照明に当たると赤く輝いた。ジャガーはルシファーを真似ていたのだ。

作家のサンチェスの次の描写は、彼の言うところの”悪魔儀式”についてである。グループの演奏が始まると、「不思議なことに、数人の若者が自分たちの服を脱いでしまい、取り憑かれたようにステージに這い上がってきた。そして、エンジェルスに蹴りまくられるために自分達を犠牲に捧げたのだった。彼らは蹴られて血まみれになればなるほど興奮していた。それは、まるで超自然的な力が乗り移ったようであり、自分達をサタンの下僕に捧げる人身御供としていたのだった。」

ステージの群衆のなかにメレディス・ハンターという黒人の男が女友達一緒に立っていた。ハンターはこの後すぐに人身御供として突き出された。
ストーンズはこの時、”悪魔を憐れむ歌”と題された新曲を発表したばかりだったが、この曲はすぐにこの国でナンバーワンになっていた。曲の冒頭ではミック・ジャガーは自分自身をルシファーになぞらえている。オルタモントでこの曲が歌い始められるやいなや、聴衆は総立ちとなり、熱狂的に踊り始めた。

サンチェスは次に何が起こったかを書いている。
「6フィートくらいのグリズリー熊のような体格をした4人のヘルス・エンジェルスがメレディス(ハンター)にすり寄ると、彼の髪の毛を引っ張って喧嘩を売ろうとした。・・・
喧嘩が始まると、加えて5人が応援に駆けつけてきたが、その間にメレディスは群衆のなかに紛れ込んで逃げようとした。エンジェルスの一人が彼の腕を掴み、この黒人男性の背中にナイフを突き立てた。ナイフは深く貫通するには至らなかったが、メレディスはこの時、自分の命のために闘わなければならない事を理解した。彼はポケットから銃を抜き出し、相手の胸を狙って構えた時、エンジェルスが狼の群のように彼に覆い被さった。一人が銃をもぎ取り、もう一人が顔を殴りつけ、狂ったように彼の背中を殴られるあいだにメレディスの膝が崩れ落ちた。

エンジェルスがハンターを始末し終わった時、観客の何人かが手当をしようとしたが、一人のエンジェルがそれを遮って立ちはだかり脅すように言ったのは、「奴に触るんじゃない、どのみち死ぬんだ、死なせてやれ。」という言葉だった。

メレディスが実際に拳銃を持っていたのかは誰もわからない。後に逮捕者は出されたが、誰もが目撃者としてエンジェルスと関わり合いになるのを恐れたために一人も起訴はされなかった。

この血塗られた殺人が行われる最中にもローリング・ストーンズは「悪魔を憐れむ歌」を演奏し続けた。メンバーの全員が目の前でメレディス・ハンターが殺されるのをステージ上から見ていたのだ。これに加えて、驚くべきことにこの殺人の一部始終がコンサートのフィルムスタッフによって撮影されたのだが、このフィルムは後になってストーンズの曲の題名でもある「ギミー・シェルター」というタイトルで全米に発表されたのだった。

この殺人はサタニストによって計画されたものだったのだろうか?「究極の邪悪」の著者であるモーリー・テリーは悪魔カルトが自分達の殺人儀式の映像を内輪で流通させている様子を描いている。これらのフィルムは”スナッフ・フィルム”と呼ばれているが、テリーによれば、7件に及ぶニューヨークのサムの息子連続殺人事件のうちの一件は実際に現場の近くに停めたバンの中から撮影されたということだ。このフィルムは裕福なサタニストに買い取られた。「ギミー・シェルター」は大々的にヒットし、いまでもあなたの街のビデオ店で数ドルも出せば買えたり借りれたりする。


”ヘヴィー・メタル・ロック”の裏側

オルタモントと同じ年の1969年は、オジー・オズボーンの邪悪な経歴が始まった年でもある。オズボーンはブラック・サバスを結成したのだ。このバンド自体、ローリング・ストーンズを手本にしていた。これに続く15年間は、オズボーンのような薬浸けの若者達が「大金」を求めてレコード契約を競い合うということが続いた。彼らが「成功」する鍵となる基準は、いかに退廃と邪悪を表現できるかに掛かっていた。これらは”ヘヴィー・メタル”グループと呼ばれた。

1985年には、ニュー・ソリダリティー紙が、これは今では連邦政府によって強制的に廃刊させられているが、”悪魔教会”の第三階級のメンバーであるヘゼキア・ベン・アーロンへのインタビューを行っている。ベン・アーロンは今では熱心なクリスチャンであるが、インタビューの中で彼は、ブラック・サバス、ブルー・オイスター・カルト、ザ・フー、オジー・オズボーンその他の多くのヘヴィー・メタルのロック・グループを始めさせたのは彼の”教会”であったことを暴露している。悪魔教会は当時、高僧アントン・ラ・ヴェイに率いられていたが、いろいろな報告が示すようにラ・ヴェイはただのサーカスのライオン使いであり、真の高僧であるケネス・アンガーのフロントマンであった。
アンガーはまた、かつてローリング・ストーンズをオカルトに勧誘したことでも知られている。

以下はインタビュー記事の抜粋である。
「私は教会のために働いていました。教会にはまた、外部の会社と繋がりを持った人たちがいました。この人たちは、アップル(ビートルズによって設立された)、ワーナー・ブラザースその他のレコード会社と繋がっていました。ある人は私のところに来て、”今、テープを持ってるんだけど良かったら聞いてくれよ。このロックバンドに興味があったらスポンサーになって欲しいんだ。”と言うので、私は”いいよ、聞いておくよ”と言いました。」
・・数日後にベン・アーロンは電話をかけて会議を持ったのだが、彼の提示した条件というのは「そちらに10万ドル渡しましょう、そのかわり他とは契約しないように。それから、壁の後ろはハーフ・ミラーになっていることは知らなかったことにしてくれ。そうしたら録音と写真を撮って全てをビデオにも収めよう。払い戻しに関しては、もしバンドがうまく行かなかったらかなりひどいことになる。場合によっては6割は戻してもらうよ。」というものだった。
アーロンの記事は続けて、「我々は君たちを店に連れて行ってユニフォームやアンプを用意しよう。これらは全て我々が渡した金の中から支払われる。我々が演奏ツアーの準備をし、取材などの予約も入れよう。」と言ったと書いている。

アーロンはこの時、もしバンドがうまく行かなかった場合には資金を回収することや他の「方策」をとることなどを説明している。この他の「方策」というものは、多くのロック・スターが自殺していることの鍵になるように思われる。地下に潜るドラッグ・マフィアは支払わない者を消す手広い手段を持っている。
あなた方の何人かは1966年にビートルズのジョン・レノンが以下のように国際紙に述べたことを覚えているかもしれない。

”キリスト教は終わるよ。これは終わるんだ。縮んで消滅するのさ。これは論議の余地がない。僕の言っていることは正しいし、いまにそれは明らかになるのさ。僕らは今ではイエスより人気があるからね。”

彼が間違っていることが明らかになることを願う・・・


追記

もう一人のビートルズであるジョージ・ハリソンが暗殺未遂の後にガンで死去して1年後に、彼の最後のアルバムが発表された。このCD作品のタイトルは”Brainwashed”、「洗脳された」というこのタイトルでハリソンは何かを告げているのだろう。
ハリソンは操り人形だった自らの半生に気が付いていたので命を狙われていたのだろう。一方、多分早い時期にそれに気が付いていたのはレノンだったのかもしれない。彼は22年前の真珠湾攻撃の日に殺された。

数々のヒット曲を作ったアーティストに純粋な動機が無かったとは思いたくないが、ロックとされている音楽形態は常にここに述べられているような作為的な欺瞞が付きまとう。今となっては毒を抜かれたただの娯楽となってしまったようだが、もともとの機能として大衆の問題意識を逸らせて社会的なコントロール基盤の強化をはかるという意味では既に半世紀に亘る歴史が築かれてしまっている。

また、健在なビートルであるポール・マッカートニーはsir を名乗り英国王室と親しい関係を続けている。これはローリング・ストーンズも実は同様であり何らかの「功績」を認められているということを示唆している。
ストーンズはツアーの興行収入よりも、その数10トンに及ぶツアー機材に紛れ込ませた麻薬の運搬業による収入のほうが多いという報告もあり、この「功績」からか近年ビートルズ同様貴族に叙されている。

以上、訳者不明、阿修羅掲示板より

【関連リンク】
ロックと悪魔崇拝とドラッグ
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